石巻ダッシュ目次

2011年05月XX日
一緒に行ったダッシュ隊員の日記


大阪の体育講師 なっち
あしたから 2011年04月29日20:19

こんばんは!

連日お仕事、クラブの引率お疲れ様です!!!

本当に行ける事になりました。

ボランティア

ちょっくら見ず知らずの仲間40人と石巻に瓦礫撤去・泥かき作業しに行って来ます。

きっと今しか行けへんし

ボランティアに行くのでバイト休む事を伝えたら、お世話になってるマネージャーや店長から
私らの分まで頑張ってきて!気をつけて!
という言葉と一緒にカンパを頂きました。

ありがたい。本当にありがたい。

帰ってきて、皆に伝えられる事があればと思います。

それではまた


@ 2011年05月04日20:46

2011.4.30

22:40に吹田SAを出発

原発を避け、新潟・山形経由で宮城入り

2011.05.01 活動1日目

いつ、被災地の現状が目の前に現れるのか、変な緊張を感じながら、宮城入り。

だんだん道路が土っぽくなっていくのが分かる。

家から運び出されたであろう家具が、ちらほら道路の脇に置いてあるのが見えてきた。
道路の脇に船があった。
線路の脇にゴミが溜まっていた。

石巻大橋を渡っている最中、船が転覆していた。河川敷に船が乗り上げていた。

石巻大橋を渡ると、信号が機能しておらず、警察官2名が誘導してくれていた。

国道右側には海につながる川があり、右側はもうめちゃくちゃであった。

道路の脇には泥だらけの家具がおいてあったり、多くの家が崩れていた。

12:30 宮城県石巻市立湊 小学校横、め組JAPANボランティアの拠点に到着。

45名を5名ぐらいのグループに分ける。
どこへ行くか、宮城社会福祉協議会ボランティアの方から指示を受ける。


A班は医療班(歯科医院さん主催の為)で別の場所で歯の治療や、入れ歯作りを行ったそうだ。

1日目は15:30までの活動時間が迫っていた為、全員で港小学校横のお寺の掃除を行った。

小学校のプールには、車が2台突っ込んでいた。お昼時で避難所の方々が炊き出しを行っていた。
グラウンドは駐車場、自転車置き場、それから自衛隊が「希望の湯」をやっていた。

道路も、おそらく自衛隊が整備して下さったのだと思う。
じゃりじゃりのガタガタ。
でも何とか車は通行出来るようにしてあった。

歩道なんてまともに無い。
道路にも「冠水注意」とあるように、水溜まりがたくさんあった。


お寺さんに到着。
周りのお墓は全て倒れており、お墓の上に何台も車が乗っていた。

申し訳なさそうな表情で、住職の奥様が迎えて下さった。

お寺さんには何回かボランティアが来たのであろう、泥かきは終わっていた。

しかしお寺は海の匂いが染み付いていて、床も真っ黒だった。

井戸から水をくみ上げ、スコップや雑巾、ほうき、デッキブラシを使って掃除開始。
掃いても掃いても砂が出てくる。

1時間ぐらい終えた所で、少し、休憩をとった。

お寺の壁を見てみると、2m以上はあるであろう津波の後が残っていた。

15:20頃時間になったので後片付けをし、全員でお礼を言い、集合場所に戻った。

最後まで奥さんは申し訳なさそうに私達を見送って下さった…。


点呼後、借りた道具を洗いバスに乗って、石巻専修大学(ボランティアセンター)に向かった。


大学のグラウンドにはボランティアの方々のテントがたくさん張ってあった。

日本人だけでは無い。ニュージーランドの国旗を掲げたテントもあった。

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宿泊する加護坊山に向かった。
石巻市内からは1時間以上離れた山奥の駐車場であった。

テントは持参であったが、め組の方が用意して下さった様で、40畳程のテントに男性35人、小さなテント2つで女性10人が寝る事になった。

トイレは仮設トイレが2つ。もちろんボットンだった。

そこから、圧力鍋で玄米を炊き、味噌汁を作った。

ご飯は3つの鍋で1回炊いただけでは足りず、2回炊いた。


野菜は、今回ボランティアに参加出来なかった後援隊の方々が事前に切って下さっていたり、おかずを作ってきて下さっていた。

皆で感謝しながら、玄米ご飯とお味噌汁を頂いた。
すごく美味しかった。

1日目は終わった。


A 2011年05月04日20:49

2011.05.02 2日目

5時に起床。
朝ごはんづくりを開始!


外はかなりの暴風でテントの中で炊き出しを行った。


6:45 朝ご飯。
玄米ご飯と、お味噌汁

炊き出し班はお昼の準備をして下さっていた。


7:30
バスに乗り込み、専修大学へ。

医療班を降ろし、石巻に向かう。

ニーズ表をもらい、こちらから連絡を取り、活動場所に向かう


今日も半分が昨日のお寺掃除、残りの半分が個人のご自宅掃除だった。

私は家の掃除に参加した。

おばあちゃんと、おじいちんが迎えて下さった。

まだ何も手につけていない状態で、広いお庭には漁業用の網があったり、木が抜かれていたり、2cm程のひび割れた砂が一面に広がっていた。

家具を出すために、まずは家の前の泥かきから開始。
スコップですくっては、土嚢に入れて運び出す作業だった。

外だけで50袋以上にもなった。

場所が確保出来たので、畳や家具、電気製品を運び出す。

畳は部屋でガタガタに外れ散らばっていた。更に海水を吸っていて、大人3人がかりで運びだした。


床にはヘドロの山。
ガラスもたくさん混じっていた。

また土嚢に入れて運びだす。

広い居間や、台所、玄関などを掃除したが、角の1部屋は家具がぐちゃぐちゃになって部屋に詰め込まれていた。
そこの撤去は頼まれなかった。

その部屋以外は掃除は完了したが、とても住める様な場所ではなかった。
床はヘドロで黒く汚され、海水の匂いがし、カビも生えていた。

恐らく床の下にも大量のヘドロが溜まっているのだと思う。


ご夫婦は今、仙台に避難されている様で、週に1回ぐらいしか自宅には戻られないらしい。

地震当日は、家に居られ、車で小学校に避難しようとしたそうだ。
でも車は渋滞し動かない。
2人は車を捨てて山の方へ逃げたそうだか、車に乗っていた多くの方が命を落とされた。

雪の中、15時間外で過ごし、1回目の津波、2回目の津波、、3回目の津波が来るのをただ見ることしか出来なかった。

ガタガタに崩れた墓石を足場に小学校に避難したが、3日間食べる物も飲むものも何も無かった。

恐る恐る実家に帰ってみると、家は住める状態ではなく、仙台にいる娘さんが車で迎えに来て下さって避難できた。


近所で空き巣が多発していて、家に入る時は、わざと大きな声を出した。


このお家の周りの方も、多くの方が亡くなったとおっしゃっていました。


そして今回の地震で本当に最低限の物しかいらない。
と強く感じたそうです。


今日は普段にない暴風が1日中続いていた。

私達が聞き出して良いものなのかと
何も話掛ける言葉が見つからないまま作業をしていましたが、お母さんの方から話し掛けて下さいました。

作業が終わり、帰ろうとするとお母さんが コップにお水を入れて皆に配って下さいました。

朝早かったからどこも開いて無かったの、と。
この辺は自販機もダメだしね、お水でごめんねと。

貴重な貴重なお水を頂いた
申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいっぱいだった。

ずっと固い表情だったおじいちゃんも、最後は目を赤くして頭を下げて見送って下さった

おばあちゃんに、落ち着いたら手紙出すね、と言われ住所を渡した

すごく暖かい気持ちになれた。

そして喜んでもらえて良かった。少しでも力になれて嬉しかった。

来て良かったと強く感じた。



B 2011年05月04日20:50


2011.05.03

活動最終日。

湊小学校横のボランティアセンターまで行く。


昨日余震があった事を宮城社会福祉協議会ボラの方から聞いた、
私達は全く知らなかった。今日は大潮なので注意が必要とのこと。


今日はお寺やマンション、アパート、個人宅に分かれた。


私達は2グループ(計10人で)合同で
昨日お伺いしたお家の近くで山側の自宅の掃除に当たった。

行く途中、瓦礫の山にサビサビの車が5台程積み上がっていたり公園が瓦礫の山になっていた。


元気なおじいちゃんと おばあちゃんのお家だった

お二人は避難所で生活をしているらしい。


家にボランティアが来るのは3回目らしく、昨日の作業とは全く違う活動だった。

家には80cmほどの津波が来たのであろう後が残っていた。


すでにおじいちゃんが1人で重たい畳を外に出し、床下のヘドロを取り除く為に床の板をノコギリで切り出していた。

私達は泥まみれのタイヤやふすま、障子、サッシ等の掃除を行った。

男性の方は床下にもぐりヘドロかきをしていた。


庭には娘さんの嫁入り道具であったタンスが泥まみれでおいてあった。
津波の影響でカビも生えていた。


午前中の作業を終える頃にお孫さんや息子さんの奥さん達がきて、お昼にカップラーメンを作って下さった。ありがたくありがたく頂く事にした。


おじいちゃんに私達のお昼ご飯であった巨大な玄米を差し上げると おいしい と食べて下さり、おじいちゃんはじゃ代わりに、これとシーチキンを下さった。
皆でお昼を頂いた。

外ではどこかの報道人がぷらぷらと歩いていた。何をしにきたのだろう。


まだ3歳ぐらいのお孫さんは、じいちゃん。じいちゃんと、ずーっとおじいちゃんの側にいた

おじいちゃんは地震の後、女川原発から水に浸かりながら9時間掛けて歩いて家に帰ってきた。

今でさえ、家の周りは車も通れるが、当初は道路も全て瓦礫で埋り、自衛隊の皆さんには本当に感謝している。

自衛隊やボランティアと方がいなければ…そしてもう一度津波が来てやられたらもう立ち直れない、とおじいさんは言った。

その時、近所の子供が
地震雲が出とるから気をつけて!と言いに来てくれた。

空にはまっすぐの虹が掛かっていた。

私達はもしかしたら地震が来るかもしれないと不安に思ったが、地震雲ではなく虹だった様だ。

不気味な空だった。


一通り作業を終えたところで缶コーヒーを頂いた。


何日も掛けて作業されていて、心も身体も疲れているだろうに
おじいちゃんは笑顔で見送ってくれた。がっつり握手して別れた。

おじいちゃんの笑顔を見て
頑張って下さいとは言えなかった、、、


集合場所に戻った。
今日は湊小学校で、てんつくマンのイベントがあると言う事で、皆で港小学校に移動した。

小学校の校庭でボランティアによるライヴが行われていた。

校庭で椅子に座って楽しんでおられるおばあちゃんや、2階3階から顔を出して見ている方もおられた。

見ている方が笑顔になっていく姿に凄く感動した。

イベントも終わり、また集合場所へ。

途中、ジャージを着て、カバンを掛けて自転車に乗っている小学生達を見つけた

普通の町では当たり前の光景だか、すごく違和感を感じた、なんだか不思議だった



テントに戻った。

夜てんつくマン(め組JAPAN)が私達のテントに来てくれた。

最初、小学校には1300人が避難していた事

津波が来るので避難して下さいと車に乗って呼び掛けていた、行政の方が亡くなったこと

それによって行政が全く動かなかったこと

子供を預け買い物にいって地震にあい、家に帰ってみると、おばあちゃんに抱き締められて、子供が亡くなっていたこと

被災地の方はもう一度大きな津波が来ると思っていること


そしてまた津波がくるかも知れないので、仮説住宅建設が進んでいないこと

仮説住宅に入居しても寂しさで自殺をしてしまったり孤独を感じてしまう方がいらっしゃること


め組はその方々と一緒に色んな種類の木を海沿いに植えようと計画されてること

海水でダメになってしまった田んぼでも、米は作れるのではないか!こういう時こそ試そうではないか!と今年から農業を再開しようとされている方々がいらっしゃること


てんつくマンは色んな話をして下さった。
私達の知らない話、現状を聞くことができた。

もっともっと私達にできる事はたくさんある。


こうして作業3日目は終了した。



つづく